ささきの考え

ただの薬剤師。趣味は哲学とスピリチュアル。考え行動したことや、Twitterでは書けない思いの丈を綴った長文や考察を記事にしてます。ツイッター→https://twitter.com/ssk_ske

私の在る場所

 

私が今いる場所、私が今していること、私が理想としている姿、私の理想の住処……

そういったものは、この"ちっぽけな俺"がいくら頑張って動いてみても、世界に働き掛けてみても、変わるものじゃない。
それらは、もっと大きくて、理性では分かりえない何かが動かしている。そんなふうに思う時がある。

 

東大の入学式の祝辞で「あなた方は自分の力で入学したと思うかもしれないが、環境があなた方をそうさせたのだということを理解し、そのことを忘れてはならない」というような趣旨のことを述べているニュースを観て、私はハッとした。
その通りだ。心のどこかで感じていたが腑に落ちなかったことが、ストンと音を立てるように腑に落ちた。
今の私は、確かに自分で動いたから今ここにいる。しかし、それは自分だけの力ではどうしようもならないことでもある。


ワンオクの曲に"皆無"という曲がある。その曲が伝えたいのはまさにこういうことだ。

 

私は、ただ水槽の中にいる魚に過ぎない。

 

水槽の中での移動は自分の意思で行ったかもしれない。

だが、水槽から水槽への移動は、私がいくら頑張っても出来ることではない。
もっと大きな、魚には理解できない大きな何かが、その水槽を別の水槽や川や海なんかにひっくり返しでもしない限り、私はその世界からでることすらままならないのだ。

 

私の世界が大きく変化する出来事が起こったとき、それはだいたい私が何かをしたわけではない。
もちろん、私がなにかすることもあるが、そんなのちっぽけなものだ。水槽の端の水草から、反対側の岩場に移動したくらいのことでしかない。
私が何かをするよりも先に、もっと大きな何が動き、私の住んでいる水槽そのものを移し替えたのだ。その結果、私が何か行動を起こし、住む場所が変わったにすぎない。

 

大学で留年したのも、勉強する面白さに気づいたのも、今の職場に就職したのも、全部私が経験したことだが、その根本ではもっと大きな流れが私を動かしていた。その大きな流れの変化は、大学のときに限ったことでは無い。もっと前にもあったのだ。

興味のなかった学部に入ったことも、友人から「気持ち悪い」と言われ馬鹿にされ笑われ人前で何かをするのが怖くなったことも、漫画やアニメに魅了されたことも、なんなら私が生まれてきたことさえも、私が成し遂げたことでもなんでもない。ただ世界がそう動いただけ。私はその流れに流されていただけなんだ。

 

どんなに頑張ろうと、どうにもならないことがある。だから諦めろと言っているわけではない。頑張りたければ頑張ればいいんだ、苦しみたかったら苦しめばいい、他人の目が気になるなら気にすればいい。
自分にはどうしようもない大きな流れが、そういった感情や欲求を起こしているんだ。そして世界が"ちっぽけな俺"を通してそれらを経験しているんだ。

 

だから、もっと力を抜いて、"ちっぽけな俺"が何かをしようと、流れに任せて"大きな私"に全て投げ出してみる。力まず、流されてみる。その流れに乗ってただただ流されるのを自分のことではなく他人事のように眺めてみる。そうすることが、私にできる最善の事のように思う。私がどんなに動いたって、どんなに逃げようとしてみたって、大きな流れが私を運んでいくのだから。

結果として"ちっぽけな俺"が昔望んだ状況にならなくても、もっと高い目線で見れば、これで良かったと思える場所へと流れ着くから。今いる場所、そこが私の在る場所だから。そこがあなたの在る場所だから。