ささきの考え

ただの薬剤師。趣味は哲学とスピリチュアル。考え行動したことや、Twitterでは書けない思いの丈を綴った長文や考察を記事にしてます。ツイッター→https://twitter.com/ssk_ske

答えのない思索

ふと、悩みについて考えてみた。このストレス社会、悩みの少ない人は少ないのではないだろうか。
そこで今回、「じゃあ、なぜ悩みは生まれるのだろう」という事について考えてみた。
9月半ば、心身ともに疲弊しきって布団から出れなくなった私が行き着いた考えを書いてみようかなぁと思う。今、悩んでるのヒトのひとつの参考になれば嬉しく思う。

 

 

悩みはなぜ出るのだろう。
私達は「答えを出す教育」を受けてきた。だから、問題にぶつかったら必死に答えを探す。無意識に、たくさんの選択肢を想定する。
だが、それらが答えである、ということは無い。なぜなら現実は思索を超えるから。だから、答えを見つけられずに悩む。自分で5択問題を作っておきながら、「どれが正解だろう」と迷ってるようなものだ。
でも、その5択問題を解いてみても、「その選択肢の中に答えはありませーん」というのが実際のところだ。

 

そんなことしてウンウン唸ったって、なんも意味なんかない。
答え(現実)はそれらの思索を超越する。それら自分で考えた選択肢なんて何の役にも立たない。
答え(現実)はいつだってシンプルだ、答え(現実)は「今」なんだから。
なのにその答えを思索で求めようとする。子供の頃、教育を受ける前はきっとそんなことなかっただろう。

 

答えなんてない、正確には"思索によって求められる答え"はない。だから思索して悩むなんてことは無駄でしかない。
悩みなんて最初からなかったんだ。自分で「答え(現実)は思索で導き出せる」といった誤った考えをすることで悩みは生まれる。
その思索をやめて、世界(現実)に全てを投げ出せばそれでいい。今この瞬間を、答えを導こうとせずに生きればいい。
その先にあるものは、思索によって得たかった現実とは違うかもしれない。
だが、きっとあなたはその現実にまんぞくするだろう。なぜなら悩みなんてない現実を生きたのだから。 

 

 

もうひとつ、私なりの答えを示そう。
思索によって答えを導こうとするのが間違いであるのなら、自分の考える自分なんてものも間違いだ。
そんなものは存在しない、自分なんて存在しない。自分を思索で導き出せると勘違いするから悩む。
自分なんて存在しないなら、守るべき自分(守るべき自尊心、知られたくない羞恥心)など存在しない。
怖い、というのは「自分が傷つくのが怖い」ということだ。
だが、自分なんて存在しない、思索で導き出した自分なんて、悩みと同じで最初からない。存在しないものが傷つくことはあるだろうか。

 

考えるのを放棄しろとは言わない。だが、思索で答えを導き出せるという思い込みは捨てるべきだ。
悩んでいるというのは、考えているのとは違う。答えを誤った方法で求めようとして身動きが取れなくなっている状態が悩みだ。
考えるというのは、現実を見ることだ。その現実から概念を抽出すること、それが考えるだ。

 

スピリチュアルでは、「今を生きよ」という。
それは、ない答えを求めるな、未来を思索で得ようとするな、過去から今を思索しようとするな、そういっているのだ。